【哲学・考察2】エーリッヒ・フロムの自由からの逃走
5,6年前から「◯◯を3年で辞めました」みたいなエントリを見る機会が増えた。
変化し続ける時代に職業変更をすることは合理的な判断だし、新しい環境にチャレンジするのは素晴らしいことだ。
ただ、気がかりなのは「自由になるためフリーランスになります!」
という趣旨のエントリを見た時だ。大丈夫か、と正直思ってしまう。
要は、仕事を辞める目的がはっきりしていないことが心配であるのだ。
今のデザインのスキルを活かし、役職付きで待遇してくれる環境へ転職(キャリアアップ)
新天地で広告を0から学び直す(キャリアチェンジ)
温めていたビジネスプランで会社設立する(独立)
競合他社に給与が上がるので転職する(待遇アップ)
などは、理由も極めて分かる。だが、
「自由を得るためにフリーランスになる」は、ようわからん。
新しく仕事は誰とするのか、顧客の獲得見込みはあるのか、当面の運転資金はあるのか、等諸々心配になってしまう。
そして当人にとっての「自由」の定義を突き詰めていかないと、自由に苦しんでしまうというのが、フロムの主張だ。
フロムがこの主張をした時代背景は、下記のとおりだ。
中世の封建制度から開放され、16~18世紀に渡りつづいた貴族制が廃止された。人々はようやく自由を勝ち取った。
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何のために血を流し革命を成し遂げたのか、全く泣ける話である。
だが歴史はこのようにループしながら改善していくものだ。
だが、彼らは何故あれ程までに熱狂的に、自らを国の管理下に置くという選択を選んだのだろう。
フロムの考察をまとめると、
・自由であることには孤独と責任が伴う
・その苦しみに耐えながらコントロールする術を各人が体得することで、優れた社会は成り立つ
・だが、自由である苦しみに耐えられない人々は、あれ程に得たがっていた「自由」を投げ捨てて自らのコントロールを国に委ねた
ということだ。
「自由=100%自分の判断が結果に返ってくるということ。それをコントロールする覚悟が無いなら、自由を手放す方が楽だよ。だけども、各人が覚悟をもって自由をコントロールできたとき、最高の社会になるよ」
というのがメッセージであるが、非常に現実社会で考えると厳しい側面もある。
具体的には
・誰と付き合うかも自分の判断結果だから、合わない相手と仕事をするストレスも自分が招いた結果として向かい合う必要がある
・稼げないのも自分の選択した結果だから、自分の無能さに向かい合う必要がある
(金にならなくても、自分が命を使いたい仕事ならいくらでもやってもいい)
・一日中家で寝てても、働いていてもOKであり、全て時間配分を自分でコントローする必要がある
・老後資産の形成も、年金加入から自分で行わないといけなくなる
などなど。これを見て大変そうと思ううちは、会社なんぞ辞めるべきではない。
独立するならこれらの問いは朝飯前に想定済みでないといけなくなり、その上位概念である「どのように生きていくか」という自分の人生の方向性が見えていないと、自由はコントロールできない。
時間的な自由が欲しいのか、それとも働き方の自由が欲しいのか、それだけでも時間の使い方は全く異なる。
その方向性が無いままだと、どれだけ働いていいか、どれだけ休んでいいかも分からない訳だ。
自分の周りにいる独立して楽しそうにやっている人は何人かいて、ハードワークだったり週1で仕事してたりバラバラだが、彼らは自らの意図した生き方通りに働けているから、幸福そうなのだ。
「何が自分にとって大事な価値観か?」
「社会や家族とどのようにして生きていきたいか?」
という人生のアジェンダなくしては自由は語れないし、それをまずは明文化できないと人生はコントロールしようがない。
自由を得るために辞めるという友達が周りにいたら、フロムさんの事を伝えてあげてほしい。
人生の地図を書いてから、それに従って情熱的に生きることでしか自由は飼いならせないんだなあと、改めて自分の軸を磨き上げることの大切さを理解した。
フロムさん、ありがとう。合掌