競争社会に疲れた人にこそ、新島へサボりにいってほしい。
先日、小笠原諸島の一つである新島へ行ってみた。
沖縄もだし、離島には不思議な求心力がある。
僕もその魅力にとりつかれた人間なのだが、離島の何が人を駆り立てるのだろうか。
島にいく度に思う、感じることを書いてみた。
<ざっくり見出し>
1) 手軽に行ける非日常
今回行った新島は、東京から船で2時間半、飛行機だと30分で行ける立地にある。
沖縄や屋久島などでも、朝一自宅を出て午後一では到着可能なレベルだ。
土日で屋久島で屋久杉みて観光、月曜出社なども可能であり、多忙な中でも行けるのが離島である。
サーフィンや山登り、釣りをする。
新鮮な海や山の幸、地酒に舌鼓をうつ。
五感で自然を感じ、スマホも時計も意識しないプリミティブな生活を送ることは、時間に追われている我々にとって、極めて贅沢な時間であり、異空間である。
新鮮な刺身は離島の醍醐味
2) 狭いコミュニティに生きるということ
島というのは、言うなれば閉鎖空間である。
逃げようと思っても、船か飛行機しか無いわけで、その出入り口は島に一つしかなかったりする訳で、物理的に逃げることが難しい。
一旦島の外に身を潜めようにも、戻ってくる時に簡単にバレてしまう。
人口が少ない島は、住民の顔と名前が一致しているため噂はすぐに広まるし、
※新島は人口2800名程
それが故に悪事は働かれないし、車や家に鍵なんてかけてない人が殆どだ。
この閉鎖性は、島独自の「他人に施しをしやすい仕組み」を生み出している。
つまりプラスの評判も島の中ではすぐ広まるため、丁寧なサービスやもてなしを行うことは、ビジネスとしても合理的なのだ。
だから互いに最大限のおもてなしを行おう、というプラスの循環が島の中に渡っていることが多い。
島の中の飲食店というのは、本当にサービスレベルが高い。
仲良くなったら裏メニュー作ってくれたり、会計とかも適当にまるめて支払い。
味噌汁を飲みたいと行ったら、パブなのに味噌汁が出てきたこともあるw
このような血が通った交流や一人ひとりに合わせおもてなしは、都内だとありえないし、もしくは高級店の水準だろう。
3) 競争社会のレールから外れること
会社で定年70年まで働き続けるとしたときに、最後まで競争し続けることは無理だ。どこかで「競争を諦める」ことが必要だ。
それは自分の持ち場を定めるということであり、他の時間や価値観に目を向けるということでもある。
「定年退職して無趣味で困る」みたいな論調もちょいちょい見るが、それは仕事以外での自分の生き方を見つめることが無かったからじゃないか。
島にいくと、社会通念上避けられがちなタトゥーを入れてる人もそこら中にいたり、
(話は逸れるが、タトゥーとヤクザの入れ墨と誤認してる人が多すぎる)
オフシーズンだけ働いて、オンシーズンはレジャーに全力で生きている人だったりが沢山いる。
離島は外部から与えられる刺激が少ないから、自分の心の声と向き合うにはもってこいな環境だ。
自分の生き方は比較や競争では手に入らないから、定期的に自分と向き合う習慣は是非持ったほうが良い。
4) 僕なりの離島との付き合い方
僕は一人旅だったり島に行くのが好きなのだが、それはひとえに「自分が未知の環境や一人になった時にどういう行動を取りたいと思う人間か」を知れるからだ。
1ヶ月くらい海外を回ったり、クルージングで数週間回ったり、今回みたく離島でぼーっとするのがすきだ。
その時最終的に心から湧き上がってくるのは「刺激的な仕事をしたい」「おもろいチームでプロジェクトで遊びたい」とかいうことが大半だ。今のところ。
なんで、仕事は自分にとっては自己表現の一つであり、社会と能動的に関わるツールなんだなーと気づける。
それもどこかのフェイズで変わることもあるだろうし、その時はその時の心の声に従いたいと思う。
それは、サーフィンでも将棋でも星空を研究するでもなんでもいい。
「これやりてえ」って、新しい自分の考えに気づくため、そしてやりたいことへの燃料を投下するための手段として、意識的に何もない環境=離島に自分を放り出すのはとても有効だと思う。今のところ。
では、また。
<新島のおまけ>
新島とイタリアのリーパリ島でしか採れないと言われていた抗火石だが、
新島でしか採れなくなったらしい。
パルテノン神殿風の無料浴場!海が一望出来る。